2013年9月8日日曜日

確かな信仰を求めて

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
(ルカによる福音書14章28-32)


イエス様が、語っておられる二つの例え話、「資金がないのに家を建てようとする人」と、「1万の兵で2万の兵を迎える王」の例え話。
その両方の例え話でイエス様が、言われている言葉は、「腰を据えて」という言葉です。

「腰を据えて計算しないであろうか?」「腰を据えて考えないであろうか?」

それは、すなわち「落ち着いてよく考えないであろうか?」ということです。
イエス様について来ようとした群衆はある意味、熱狂的でありました。
彼らは、熱狂的であるが故に、理性的に考えることなく、ただイエス様について行けばいいことがあるという程度にしかイエス様のことを考えていませんでした。

しかし、信仰というのは、単なる感情的なこと、あるいは一時的なこととは違います。
そこに、ひとつのしっかりとした知識と確信があって、私たちは、初めてそれを固く信じ、そこに信頼していくことが出来るのです。
そうでないと、自分だけでは抱えきれない問題が起こったときに、ただ闇雲に悩みと不安を募らせてしまうだけの結果になります。

私たちは、感情的にではなく、腰を据えて、冷静に考える必要があります。
私が何よりもイエス様を愛する理由について、腰を据えて考えるのです。

イエス様は、私たちに感情的な、あるいは熱狂的な信仰を求めておられるのではありません。
そうではなく、理性的で確かな信仰を求めておられるのです。

私たちは、父なる神を「造り主」と呼び、御子なるイエス様を「救い主」と呼び、そして、聖霊なる神を「助け主」と呼びますが、それらの呼び名にも落ち着いた理性的な根拠が確かに存在するのです。

私たちは、祈るときも、讃美するときも、ただ「主よ、主よ」と、お題目のように唱えるのではなく、

誰が、わたしの真実なる創造者であるか?ということ。

誰が、わたしを救ってくださるのか?ということ。

誰が、わたしを助けてくださるのか?ということ。

そして、誰が、わたしを真に愛して下さるお方であるのか?ということ。

それらのことを知り、理解し、腰を据えて、すなわち落ち着いた心で考え、そして、信じるときに、私たちは、御子イエス様を愛し、信頼する者、イエス様に従う者、すなわち、イエス様の弟子として生きる者となっていくのです。









0 件のコメント:

コメントを投稿